アクチュアリーの歴史は統計・確率の歴史。

アクチュアリー
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アクチュアリー会のホームページには以下の紹介文があります。

きっかけは、17世紀のイギリス、ロンドン中心部でした。この頃、ある地域の住人たちが「仲間に万が一の不幸があった場合にも遺族の生活保護ができるよう、皆で毎月一定額を集めよう」という制度を設けました。しかし、誰かが亡くなるたびに組合員が減り、毎月の掛け金が次第に値上がりしていったため、若い組合員たちの負担が膨らみ、この制度は結局約10年で廃止されてしまったのです。
それから数十年の時を経て、今度は不特定多数の人を対象とした「生命保険」という新しい事業が、イギリスに誕生しました。

アクチュアリー会ホームページより
アクチュアリーについて|公益社団法人 日本アクチュアリー会
数理業務のプロフェッショナル「アクチュアリー」についてご紹介しています。

今、アクチュアリーの勉強しているんだ」と親や友達に話すと、なんでアーチェリーなんかやるの?オリンピックでも目指すのか?と言われました。

まぁ自分も大学の勉強の延長にちょうどいいや、手に職あった方がいいだろ、という軽い気持ちで興味を持ち、なんとなく試験に向けて勉強を始めました。

なんとか準会員になったときにふと「そもそもアクチュアリーってなんだろ」と我に返って調べてみると

国家資格ではない

ことに気づきました。

とはいえ、アクチュアリー会自体が明治32年(1899年)に創立され100年以上の歴史がありますし、アクチュアリー自体、17世紀から存在している職業です。

アクチュアリーの一次試験では数学に加えて生命保険数学・年金数理と5科目ありますが、突き詰めれば”確率と統計”です。

生保数理も損保数理も年金数理も、正規分布を前提とするか否か個人で収支相当するのか集団で収支相当させるか、の前提条件の違いでしかなく、”確率と統計”の派生的な学問です。

ですので今回は確率と統計の歴史についてまとめたいと思います。

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現代でいう”統計”の誕生

「統計」(statistic)という言葉は、イタリア語の「国家」(スタート)と「国政に携わる人」(スタティスティカ)という言葉に由来しており、当初は政府役人が収集したデータの集まりを指すに過ぎなかったようです。

現代的な意味での「統計」に初めて取り組んだのは、17世紀ロンドンにある小売店主だったジョン・グラント(John Graunt:1620~74)でした。

John Graunt (24 April 1620 – 18 April 1674)

グラントは、1604年からロンドンで毎週発行されるようになった死亡表(Bill of Mortality)に興味を持ち始めました。

Bill of Mortality from 1606

死亡表と言っても、教区別の週間の死亡数をまとめただけのもので、グラントはこの数字を使って初めて、人口統計学的な分析を行った著書を発刊しました。

分析の内容の一例をあげると、教区での洗礼数や埋葬数の平均を調査し、生まれてくる男女の比率が一定比率であることを証明しました。

グラントのもう一つの大きな功績は、アクチュアリーにとっては欠かせない「生命表」の作成に取り組んだことです。年齢別の生命表(当時は徴兵できる16歳~56歳の人口がどれだけいるか非常に重要だった)を作成しようとしましたが、十分な情報が手に入らず(といえ当時では画期的な推定を行った)制度が高いものではありませんでしたが、社会学的な分野に科学的かつ定量的な思考をもたらしました。

グラントの生命表に最も大きな改良を施したのはエドモンド・ハレー(Edmond Halley:1656~1742)でした。「ハレー彗星」で有名な天文学者のハレーでもあります。

ちなみにニュートンに”プリンキピア”(Naturalis Principia Mathematica)の発刊を促したのもハレーだと言われています。

ハレーは、それまで偶然の結果と考えられていた人間の死亡に一定の規律性があること、つまり、集団としての人口においては人の死亡を予測できる一定の秩序があることを1893年の論文の中で明らかにしました。

当時のイギリスには既にいくつかの生命保険会社がありましたが、適切な保険料を設定することができず、その経営はギャンブルの一種であるかのように考えられていました。

なお、生命保険は中世ヨーロッパの都市で組織された同業者組合である「ギルド」ではじまったともいわれています。
この「ギルド」では、仲間同士で仕事で困った時の資金援助や、病気やケガで働けなくなった時や、死んでしまったときの遺族への生活援助などをしていました。

さらに17世紀には、イギリスのセントポール寺院で、仲間に万一のことがあった時の香典をだすために、毎月一定額を払い込むという制度ができてきます。
しかしこの制度は、皆が同じ金額を支払っていたために、組合員が減るなどすると、約束した香典の金額を支払うことができなくなってしまい、潰れてしまいました。

ちょうど生命保険会社の創設期に居合わせたハレーは生命表に興味を持ち、16世紀末からシュレジエン地方の都市ブレスラウ(現在のヴロツワフ)に保管されていた記録をもとに生命表を作成しました。この論文が生命保険数学の基礎となりました。

ハレーの生命表
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確率論の誕生

確率の本格的な研究が始まったのは、勝つ可能性に応じて掛金を決めようというギャンブラーの試みでした。特に17世紀半ば、ギャンブラーとして名高かったフランスの貴族、シュヴァリエ・ド・メレが、フランスの有名な数学者かつ哲学者のブレーズ・パスカル(Blaise Pascal:1623~1662)にギャンブルの質問したことに始まります。

ブレーズ・パスカル

この質問を巡る、パスカルともう一人のフランスの数学者ピエール・ド・フェルマー(Pierre de Fermat:1607~1665)との長い手紙のやり取りが、確率論が生まれたといいても過言ではありません。

ピエール・ド・フェルマー

フェルマーと言えば「フェルマーの最終定理」で有名です。350年以上証明されなかった難問にもかかわらず、当時フェルマー自身が「私はこの問題の素晴らしい証明方法を思いついたが、それを書くにはこの余白は狭すぎる。」と自身のノートに綴ってあったという逸話が残っています。

1993年に最終定理を証明したアンドリュー・ワイルズ

この手紙のやり取りの中で、現代人ならば中学生(早ければ小学生)で習う確率の基礎的な問題”ゆがみのないコインを投げた時に表(または裏)が出る確率”は50%という考え方が生まれました。

当たり前すぎて私も疑いの余地もありませんでしたが、”次に出るコインの裏表はわからない“のに”コインを1万回投げたら、ほぼ5000回出る“ということが自明(あらかじめ分かる)です。

どうように同じ考えで、サイコロを実際に1万回投げなくても、サイコロを投げて6が出る確率は1/6(6万回投げれば1万回は6が出る)だと分かります。

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確率論と統計学の紐付け

確率論と統計学は当時別の学問でした。確率論は前提条件が分かっており、将来を予想することを目的とする学問、一方で統計学は前提条件は不明であるが結果は分かっており、結果から前提条件を推定することを目的とする学問です。

この2つの学問が多数の事象の場合に紐付くことに気付いたのが、ヤコブ・ベルヌーイ(Jakob Bernoulli:1654~1705)でした。この基本的発見は”大数の法則”と呼ばれます。

確率pで起こる事象において、試行回数を増やすほど、その事象が実際に起こる確率はpに近づく

ベルヌーイも「事象の発生回数を増やせば増やすほど、まるで事前に知っていたかのように、高い精度で事後的に突き詰めることができる」という言葉を残しています。

このように”確率論”と”統計学”という源流が違った学問が、実は紐付けられるという結果に至ったのも凄いことですが、当時はまだ「全く歪みのないコイン」といった机上の空論であったり、ネジを大量に作るときの品質チェックという分野でしか活用されていませんでした。

これを人間の身長や寿命といった社会現象的なもの(アクチュアリーっぽくなってきました)に確率・統計を紐付けたのが、ランベール・アドルフ・ジャック・ケトレー(Lambert Adolphe Jacques Quételet:1762~1874)でした。

ランベール・アドルフ・ジャック・ケトレー

彼の最も有名な著書である「人間とその能力の発展について-社会物理学の試み」では、統計学を社会現象応用し、「平均人」という概念を生み出しました。

ケトレーは10万人のフランス人徴収兵の身長を調査しましたが、体重や手の長さ、自殺や結婚、犯罪傾向といった精神的なものまで、正規分布に従うことを発見しました。

18世紀前半から正規分布自体は、数学者や物理学者の間では良く知られていた分布で、測定誤差を示すだけの分布(当時は”誤差曲線”と呼ばれていた)として知られていたのですが、これが人間の特徴にまで当てはまるということが衝撃的でした。

ケトレーはこの考え方を飛躍して、「母なる自然が作り出そうとしているのは平均人なのだ。」と結論付けました。これが「平均人」という概念です。

ここで言いたいことは、「平均人」が重要ということでなくて、完全に偶然の代物でしかなかった人間の特徴(行動)が、数学的にコントロールできるということです。

結果として、「死(逆にいえば長寿)」という現象が、確率論的に予想できるという前提があって、アクチュリアルな学問(保険数理・年金数理等)が発展しました。

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最後に

このブログ記事のアイキャッチ画像は、「生命保険の父」とよばれいるエリザー・ライト(Elizur Wright:1804~1885)です。

当時のアメリカでも生命保険は普及していたものの、「とある人が死んだら○円貰える」といったギャンブル的な要素が強かったそうです。被保険者が保険料を払えなくなると競売にかけられ、保険証券を取得した第三者が保険料の支払い義務と保険金の取得権利を持つことになるため、「早く死ぬこと賭けるゲーム」になってしまっていました。

ライトは奴隷廃止論者でもあったことから、被保険者の権利を守ることに注力し、解約返戻金という概念の導入(従来から返金制度はあったが権利として当局に認めさせた)や保険会社は勝手に責任準備金を処分出来ない不没収法の制定し、生命保険の社会的価値の向上に多大な功績を残しました。

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